岡原文彰/宇和島市長選挙の経歴や家族は?年収や選挙結果も!

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市長

任期満了伴う8月22日告示、29日投開票の宇和島市長選挙は、再選を目指す現職岡原文彰氏の立候補のみの無投票当選となる可能性が高まっています。

宇和島市選出の有力政治家には、世襲の傾向が見られます。とある家系が政治的エリートととして固定しつつあり、例えば中川千代冶元市長と中川鹿太郎県議は親子であり、中畑義生元県議と中畑保一(県議・議長に再登板)、山本友一元市長(県議・衆院議員・死去)と山本公一衆院議員(県議・環境大臣等歴任)も同様です。

宇和島市長選は、無投票で当選が決まったことが、過去に1度しかありません。さらに現職市長に対する対立候補が共産党公認または推薦の候補者の1名だけだったという実質的信任投票もありません。

宇和島市は、民主党が政権交代を果たした年の市議選挙においても、自民党公認候補は急増。自民党王国・宇和島を知らしめしました。

そのような宇和島で、民主党公認を選挙に立候補したことがある岡原文彰氏です。

民主党自体が今は消滅していますので何とも言えませんが、無所属として立候補し宇和島市長となりました。

今回も、無所属での立候補です。リベラル派であることは言えるでしょう。このことから、かなりの手腕と魅力が備わっている人物であると推察します。

ここでは岡原文彰氏の

・経歴
・学歴
・ご家族
・年収
・実績や評判
・公約
・その他

についてお伝えいたします。

今回の選挙は、2期目の続投について、市民に信任を問う選挙のはずです。無投票当選は、避けたいところです。

以下、無投票当選についての考察をまとめています。全国的に深刻な問題とされている無投票当選は、今回もかなりの割合であると考えられます。

人気が高い岡原文彰氏であったとて、無投票当選を避けられるならば避けるべきであるとする理由となります。長くなりますので、ご興味がなければ飛ばしてお読みください。

無投票当選
年々、無投票当選の割合が増加しています。
前回の選挙において、県議選については 321選挙区で501人(前回263選挙区410人)、指定市議選では2選挙区において17人(前回0人)、市議選については15選挙区で 246人(前回11選挙区116人)、町村議選では89選挙区で930人(前回84選挙区 893人)、町村長選は53人(前回58人)、そして市長選については27人(前回15人)の無投票当選人が出ています。
これらのうち最も無投票当選比率が高かったのは町村長の選挙です。122人の改選人員のうち 53人無投票当選となっているのですから、実に 43.4%ということになります。
前回47.9%、58人から見れば若干下回っているように見えますが、全体像を捉えると、明らかに無投票当選は増えています。
これは日本国民の政治への無関心が生んだものともいえましょうが、民主主義とは何たるかの認識不足が大きなものと考えられます。

無投票当選は、公職選挙法の規定にあるものです。
立候補者が定数を超えない場合には投票を行わず、立候補者をそのまま当選人にするというのは、一見大変合理的な規定に見えます。
他に立候補者がいなかったのだから、有権者に候補者が信任されたのだという暗黙の了承の上に成り立っていると考えることもできます。
しかしもう一方、立候補者の「この役務につきたい」という立候補者の意思だけで当選したということにもなります。

公職選挙法において無投票当選が規定されたのは1925(大正14)年5月であり、その規定をそのまま今日に踏襲しています。
大正14年は、普通選挙法が加藤高明内閣によって制定された年です。
普通選挙法とは満25才以上男子による普通選挙を規定する法律(大正14年5月5日法律第47号)の通称です。
それまでは被選挙者の年齢を30年以上、貧困のため公私救恤(こうしきゅうじゅつ)を受ける者や住居不定の者には選挙・被選挙権を与えないといった内容が盛り込まれていました。
納税額によって選挙権のあるなしが決まる、いわゆる制限選挙から、納税要件が撤廃されたのは、画期的でした。

1917年にロシア帝国で起きた2度の革命、通称ロシア革命の影響を恐れて提出された治安維持法案の成立に対する見返り、要するに飴と鞭ではなかったかとも言われています。
さておき、この時の公職選挙法の規定にあったものが、民主主義が確立した現在にそのまま踏襲されることの違和感や不具合は顧みなければなりません。
無投票当選は暗黙の信任ではなく、不信任の意見を排除している結果に他ならないのです。
無投票ではなく、信任・不信任を表明する機会を与える場とする必要性が問われ、また求められています。

現在選挙公報に関する条例の中にある選挙公報の発行を中止する場合において、第 6 条 公職選挙法第 100 条第 4 項(無投票当選)の規定は、投票を行うことを必要としなくな
つたとき又は天災その他避けることのできない事故その他特別の事情があるときは、選挙公報の発行を中止することができるとしています。
要するに、無投票当選の場合には、選挙公報の配付すらないのです。

 
 

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岡原文彰/宇和島市長選挙の経歴は?

おかはら文彰official site
おかはら文彰のオフィシャルサイトです。宇和島で生まれ育った岡原文彰は2017年の宇和島市長選に立候補しました。宇和島市を、一歩でも前へ歩を進め、前へ歩み続けることで、必ず街は変わることができると私は信じ、かつての明るい笑い声の響き渡る街を目...

2017年の任期満了に伴う宇和島市長選挙において、無所属新人で元市議の岡原文彰氏と兵頭司博氏の2人が立候補しました。

合併前から16年にわたり市政を担ってきた石橋市長の引退表明を受け、宇和島市は新人候補を向かい入れる準備ができていました。

岡原文彰氏は宇和島市出身で大卒。水産会社に勤務した後、2013年の市議選で初当選を果たしています。

兵頭氏は同じく宇和島市出身で津島高校を卒業。運送業を経て1996年に旧津島町議選に初当選し3期、宇和島市に合併した2005年から市議を3期務め、議長などを歴任するなど、この時点で文句なしのベテランだったのです。

高学歴VSそうでもない、ニューカマーVSベテラン、リベラルVS保守系といった構図に見えたものです。

2013年の市議選において、岡原氏が3,041票を獲得してトップ当選し、兵藤氏が2,638票で2位当選という曰くも付録についていました。

そんな選挙戦を制した岡原文彰氏の、2期目の審判を問う選挙になるところでしたが、このまま無投票当選もあり得る状況です。

経歴を簡単な表にしました。

名前 岡原文彰(おかはら ふみあき)
生年月日 1970年4月23日生まれ A型
出身地 愛媛県宇和島市出身
最終学歴 松山大学法学部
職業(前職) 現職宇和島市長
趣味 サッカー・ラグビー

身長190㎝、体重100㎏と、なかなかの巨漢で、ラグビーと聞けば、なるほどと納得してしまいます。

岡原文彰/宇和島市長選挙の学歴は?

宇和島市立宇和津小学校、宇和島市立城東中学校を卒業しています。

余談ではありますが、宇和島市立城東中学校を調べていると、1992年12月25日 -男子の頭髪自由化というものがありました。

今現時点で学生の方々は知らない方も多いでしょうが、以前日本の中学校では「男子の頭髪は丸刈り」と定めていた学校は数多く存在していました。

元々は戦時中に、軍国主義の流れで学校教育に取り入れられました。

戦争が終わり、自由な雰囲気が流れても、強要されるわけではなく丸刈りにしていたという子供は少なくありませんでした。

しかし1970年代、学校が荒れ始め、校内暴力が深刻な社会問題としてあげられるようになります。この時に、生徒を抑え込むという意味合いからでしょうか。「男子は丸刈り」を校則で定める学校が増えました。

80年代には、全国の中学校のうち30%程度にその校則があったようです。

しかし身体の一部である頭髪を、校則をタテに指導者が強制的に丸刈りをするなどがあり、基本的人権の侵害や、傷害とまではいかないまでも暴行罪にあたるのではないかといった問題が取りざたされました。

理髪や理容は、免許がいりますよね。「熊本丸刈り訴訟」などは、全国的に注目された訴訟です。

非行を抑えるのに一定の効果があったと、賛成派は主張していました。

93年、当時の文部相赤松良子氏が「丸刈りは兵隊を思い出しぞっとする」と発言したことで、丸刈り校則は徐々に消えてゆきます。

それよりも早い1992年に頭髪の自由化を決めた宇和島市立城東中学校は、随分と進歩的であったのではないかと考えられます。校風も安定していたのではないでしょうか。

出身高校は?

愛媛県立宇和島東高等学校です。

「校内ボートレース大会」と体育祭の中で三年男子生徒により行われる伝統行事の集団演舞「思へば過ぎし」が有名です。

2008年4月1日に定時制普通科を設置しています。国会において「定時制高校統廃合」問題が取りざたされたのは、2000年代の03年04年のあたりだったと記憶しています。

東京都立の定時制高校が97年の103校が、2011年度には55校までに減らされようとしていました。

当時衆議院議員であった石井郁子(日本共産党)は、2004年の「第159回国会」にて、『夜間定時制高校の統廃合に関する質問主意書』を抱いて質問に立ちました。

その中で、以下のような発言をしています。

定時制高校には働きながら学ぶ生徒がおり学びなおそうと通う年配者もいる。いじめや不登校、引きこもりに苦しんだ生徒がいきいきと学んでいる例も多い。(中略)いまや夜間定時制高校は学校や社会の中で傷つき問題を抱えた子どもたちの最後の受け皿となっている。そうした定時制高校を拡充することはあっても廃止・削減することは許されない。

宇和島東高等学校が定時制普通科を設置したのは2008年です。どういう経緯で設置したのかはわかりませんが、好意的に見てもよさそうな気がします。

出身大学は?

松山大学法学部を卒業しています。

マツダイと呼ばれる私立大学です。偏差値は66程度ですので、そこそこの難関校といえるでしょう。

前身は1923年(大正12年)創立の松山高等商業学校です。大正から昭和の初頭にかけて、多くの学校が設立されました。

国際社会の一員としての立ち位置を日本が確立するためには教育の底上げが不可欠でしたし、経済界における成功者は、後世を担う若者を育てる義務を感じていました。

例えば灘中学校・高等学校は、灘地方で酒造業で財を成している、嘉納治郎右衛門(菊正宗)、嘉納治兵衛(白鶴)、山邑太左衛門(櫻正宗)によって設立されました。

甲陽学院中学校・高等学校は、西宮の酒造業を中核として確固たる地位を築いていた辰馬財閥が設立しています。

松山高等商業学校の設立には、新田長次郎氏、加藤恒忠氏、加藤彰廉氏が寄与していますが、新田長次郎氏は新田帯革製造所創業者であり、松山高商設立に際し巨額の私財を投じました。

松山大学では今でもこの三方を、「三恩人」と呼んでいるとのことです。

 
 

岡原文彰/宇和島市長選挙の家族は?

妻・長女と書いてあるプロフィールを見つけました。詳しい内容はありませんでしたが、家族構成としてはこのような感じでしょう。

ラグビーの精神は、「One for All, All for One」と「NO-SIDE」。

そして最初に殴ったほうが悪いのではなく、殴り返した方が悪いとする、紳士のスポーツです。

報復はスポーツマンシップに反するということにもとづいているらしいのですが、ラガーマンである岡原文彰氏は、ご家庭もきっと大切になさる方なのでしょう。

岡原文彰/宇和島市長選挙の年収は?

市長の月収は85万5千円ということで、期末手当を足しても年間1,300万円程度だと考えられます。

岡原文彰市長1期目在任中の2018年12月14日、宇和島市特別職報酬等審議会(村尾明弘会長、7人)は市長ら特別職の給料と議員報酬を現行通り据え置くよう答申したとのこと。

据え置きの答申はこの時点で2006年度以降13年連続だったとのことで、現在も継続している可能性が高いと考えられます。

物価の上昇もあるのですから、実質カットと同じと見ても良いでしょう。

岡原文彰/宇和島市長選挙の選挙の実績や評判は?

ガバメントクラウドファンディングの活用などがお上手なようで、報告がFacebookに投稿されていました。

そのほか、日々の報告をツイッターで行っているようです。

インスタのアカウントもお持ちですが、こちらの方は使い方を持て余しているのでしょうか。

みている側が「どうしたいのだ?」と思ってしまうようなインスタで、インスタの持ち味を生かせていない感がにじみ出ています。

それもまた一興ではあり、素朴な人柄をしのばせます。

2011年(平成23年)4月10日愛媛県議会議員選挙に宇和島市・北宇和郡選挙区(定数4)から民主党公認で出馬するも次点で落選。

2013年(平成25年)9月1日宇和島市議会議員選挙に出馬しトップ当選。

2017年(平成29年)8月27日宇和島市長選挙に出馬し、前市議の兵頭司博を破り初当選。9月11日、市長就任。


着実にスキルアップを果たし、市長選に勝利しています。

しかし市議から市長選での勝利までの期間は大変短く、人望ある姿が想像されます。

岡原文彰/宇和島市長選挙の選挙の公約は?

2019年11月に決定した宇和島市のキャッチコピーは「ココロまじわうトコロ」です。

この宇和島を逆から読んだ「まじわう」という言葉は造語だそうで、いろいろな人が混じり合う、地域ぐるみでフォローし合う、という意味を込めていると、岡原文彰氏ご本人が語っていらっしゃいました。

そして「私自身、子どもの頃から宇和島で育ちました。本市の魅力は何といっても人の「あたたかみ」だと思います」と続けています。

「なんといっても人のあたたかみ」などと言い出せば、「ああ、目玉を持たず、市政はひっ迫しているのだな」などと想像してしまいます。

正念場といったところなのかもしれません。

岡原文彰氏の公約は、3つの柱・6つの創で、成り立っています。
3つの柱とは

第一の柱➡新型コロナウイルス感染症に対する迅速な対応
第二の柱➡豪雨災害からの復旧・復興
第三の柱➡選ばれるまちへ

そして選ばれるまちとなるために

①産業を創る
②安全を創る
③安心を創る
④人を創る
⑤まちをつくる
⑥チームうわじまを創る

 の6つの柱が掲げられています。

しごと
●地元産物の徹底的な売り込み
地元業者の持続的な経営のためには、物産展のような散発的な少量の販売では、手間ばかりかかって利益に繋がりません。目指すべきは、商品展示会等において、ロット単位で長期間にわたって取引をする帳合の役割を担うことです。こういった取引の場の橋渡しをする徹底的な売込みをやっていきます。

●地元事業者との連携強化
あらゆる行政行為、営業において、地元業者の声を聞き、協同してやっていきます。入札等においては、原則、地元業者最優先とします。

●最先端の研究技術と地場産業の連携強化
市役所に産業活性化プロジェクトチームを設置し、大学・研究機関等の最先端技術と、地場産業の連携を行います。

子育て
●各種保育体制の充実
働きながら子育てをするお母さん方にとって、お子さんの急な発熱・体調不良によって保育園に預けることができず、仕事を休まないといけなくなったり、保育園に迎えに行く時間を気にしながら仕事をしないといけないのが現状です。子育て中のお母さん方の視点に立ち、病児保育体制を充実させ、保育時間の延長にフレキシブルに対応できる制度改善をします。

●児童館、公園等の整備
子育ては、これからのまちづくりに一番大事なテーマの一つです。そのためには、安心して思いっきり遊ばせられる児童館・公園を整備していきます。新たに作るのではなく、既存公共物を利用して、お母さん方の声をしっかりと聞き、気軽に利用でき安全に遊べる場を目指します。

●医療費無料化の充実
医療費の心配をせず治療を受けられる子育て支援のまちを目指します。まず、中学生までの歯科受診無料化に取り組みます。最近の研究で、口腔ケア等をしっかりすることが、認知症予防やアルツハイマー病予防につながることがわかってきています。将来的には、中学生までの医療費無料化に向け取り組みます。

教育
●基礎学力と考える力を育む体制づくり
全国学力・学習状況調査で宇和島市は県下で小学校がワースト3、中学校はワースト1です。まずは、基礎学力を高める教育体制を整え、有名講師等を招いて、児童・生徒自身が、何のために勉強するのかを考えたり、自身にあった学習方法を模索・実践等できる環境を整え、「教育の宇和島」といわれるまちを目指します。

●夢をチカラに・・・未来教室の開催
学校では教わらない、子ども達の好奇心を刺激する分野について、地元や全国から優れた講師を招いてワークショップ等を開催し、子ども達が自身と地域の可能性を考える力を養う未来教室を開催し、夢を実現できる教育に投資していきます。

●トップアスリートの育成…宇和島スポーツアカデミーの創設
子ども達の技術向上や競争力、チームワーク精神を磨いたり、指導者達の更なるレベルアップのために、宇和島スポーツアカデミーを創設します。

医療・福祉
●健康づくりプログラムの策定
この地域を支えてくださった先輩達が、NNK(認知症、寝たきり、孤独死)の陥らず、笑顔を絶やさず元気に暮らしていけるよう、各自にフィットした健康づくりプログラムを策定します。また、障害を持った方々の社会参画を推進するプログラムを策定します。

●認知症ゼロプロジェクトの策定
専門家と協力し、独自の認知症予防体操を開発し、学術的根拠を反映した口腔ケアをミックスして、認知症にならない認知症ゼロプロジェクトを始めます。また、長年培ってきた技術や経験を、若い世代につなげる匠プログラムを策定し、認知症予防に取り組みます。

●医療・福祉のスペシャリスト養成
看護師、介護士、理学療法士、作業療法士等の養成に取り組みます。小・中・高校生のスポーツ活動等におけるケガの予防・傷害後のケア・再発防止等を促すスポーツリハビリ専門家の養成を目指します。

企画・発信
●宇和島魅力化計画の策定
●愛媛県との連携強化
●積極的な広報戦略

地方創生時代を生き抜くためには、愛媛県と足並みをそろえた計画と広報活動が必要です。あらゆる分野において5年後、10年後を見据えた具体化策の結集である宇和島魅力化計画を策定します。

防災
●防災センターの整備
●防災講座、実践型避難訓練の実施
●まちの復興計画の策定

今後予想される災害をしっかりと知っていただき、何をすべきか考えていただくことが必要です。拠点となる防災センターを整備し、より実践的な避難訓練を繰り返すことにより本番に対応できる防災計画を作り上げます。

観光
●自然と融合した体験型ツアーの開発
●伊達文化を中心とした観光プロジェクト
●宇和島の食文化大発信

宇和島でしか体験できないオンリーワンの伊達文化・グルメを発信し、釣り・サイクリング・シーカヤックをはじめとするスポーツレジャーを売り込みます。

実現に向けた具体的な施策等は、リーフレットなどで配られているようです。

政策 | おかはら文彰official site
企画・発信をはじめ、しごと、子育て、教育、防災、医療・福祉、観光と7つのカテゴリーを中心に、おかはら文彰の考える政策をご紹介します。

岡原文彰/宇和島市長選挙の選挙の立候補した理由は?

宇和島市長選初当選となった2017年の選挙時に愛媛新聞の取材を受けた岡原文彰氏は、「私は先人たちが必死の思いでつくり上げたこの宇和島を次世代の子どもたちへつなげるため、市民の皆さまの声をしっかりと聞き、その声を力に、誰にも負けない情熱で5年後、10年後を見据えた計画を策定し実行します。」と話しました。

その志をベースに公約として三つの柱を掲げていました。

①産業活性化チームをつくり、県と足並みをそろえて農林水産物をはじめとした地元産物を徹底的に売り込み、あらゆる分野で地元業者を活用して地域へ潤いを創出。
②病児保育や児童館整備等で子育て環境を充実し、学校教育だけでなく地域学習やスポーツなどの社会教育を推進し次世代の担い手づくり。
③中学生までの歯科受診無料化、予防医療・予防介護に役立つ健康づくりプログラム、認知症ゼロプロジェクトへの取り組み。

加えて

・南海トラフ巨大地震に備えた防災センターの設置
・実践型避難訓練の実施
・伊達文化などオンリーワンの観光商材の開発
・市内外への攻めの広報発信で、定住人口増大

等を、市民への約束とし、魅力あるまち宇和島の創造に尽力することを掲げていました。

今回の公約は、これらを継承し、発展させています。

以前、webサイト【マチリク】で、宇和島っておもしろそう!興味を持ってもらえるまちに…という見出しのもとに、取組の一部が語られています。

ページが見つかりませんでした – マチリク

1期目が終わろうとしている今、その成果として、市初の児童館設置や小中学生の医療費無償化などを挙げています。

このようにしっかりとした成果があると、市民としてもわかりやすく、評価しやすくなります。

しかし、任期中の4年間の中で、豪雨による被害や、新型コロナの感染拡大などが、計画を大きく狂わせたのも事実です。

岡原文彰氏は「4年前に掲げた各種事業は十分にできていない。再度市長に挑戦し、具現化に努めたい」と語り、これが立候補の理由となります。

岡原文彰/宇和島市長選挙の選挙結果は?

まだ結果は出ていません。

出ていませんが、ほぼ無投票当選になるのではないかと言われています。

岡原文彰/宇和島市長選挙の引退の可能性は?

公約が大変具体的に示され、1期目を終えてどこまで進んだかということも、明らかにされています。

大きな失態を冒さないかぎり、またもっと強力なリーダーが現れない限り、岡原文彰市政は市民に受け入れられ続けるようにも思います。

ご本人としては、納得できるまでは引退しない心構えでいるのではないでしょうか。

まとめ

宇和島は伊達政宗の長男・伊達秀宗を初代藩主とし、幕末には名君の誉れ高き8代藩主伊達宗城を輩出しています。

宗城は、福井藩第14代藩主・松平慶永(春嶽)、土佐藩第15代藩主・山内豊信(容堂)、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬とともに幕末の四賢侯に名を連ね、家格が本家・仙台藩よりも上になっていました。

明治の時代には優れた政治家として、その手腕を発揮します。

宇和島は、南予の中心都市でありました。明治4年の廃藩置県によって宇和島藩は宇和島県となります。

1930年代前までは、製糸業で栄えます。一大消費都市として、発展してゆきました。

しかし,1930年代に入ると世界恐慌が始まりました。

第一次世界大戦で経済が活性化し戦勝国となった日本もまた、深刻な反動恐慌に苦しみます。

大恐慌の影響と化学繊維の普及から生糸産業は追いつめられ、製糸業はみるみると衰退しはじめました。

その流れは宇和島にとっても同様でしたが、宇和島市は工場誘致に成功しました。

1936年に近江帆布工場が操業を開始。この大規模工場によって雇用は促進され、消費都市として持ち直します。

しかし戦局が怪しくなるにつれ、原料となる綿花が思うように輸入できなくなり、1941年には操業停止を決断せざる得なくなりました。

第2次世界大戦末期、宇和島市は合計9回の空襲を受け、市街地の70%が焦土と化してしまいました。

戦後、焼け野原から復興を目指した宇和島は、八幡浜市・大洲市などの南予の都市の発展や、製糸業が復興しなかった事実などを受け、人口は減少傾向をたどり始めます

このまま冷え切ってしまうかにも見えました。しかし海の恵みが宇和島を助けます。

リアス式海岸を生かした真珠やハマチなどの養殖水産業が、70年代から80年代前半の人口の流出を防ぐところとなりました。

共に稚魚・餌料供給や資材供給、水産医薬品、水産物運搬などの関連する産業が発達したことも、雇用の層を厚くし、富も拡大しました。

しかしこれもまた、業者の過剰増加や生産超過等による魚価の低下、アコヤ貝の大量斃死などを契機に、不安を抱えるようになったのです。

これは、第三次産業が救いました。古くから宇和島は、第三次産業が発展し、「伊予の大阪」と称されるほどだったようです。

歴史的な背景等も手伝って、豊かな観光資源は、第三次産業の発展を支えました。これも1990年代までのこと。

2000年代にはいると、南予の大洲市に商業集積が起こり、宇和島をしのぎ始めます。

2004年の松山自動車道西予宇和インターチェンジ開通も、宇和島からの購買力の流出を招いてしまいました。

このような背景にある宇和島の舵取りを誰に任せば、明るい未来をもたらしてくれるのか…。

市民にとって、首長選びは生活に直結しています。

このまま岡原文彰氏が2期目に突入しそうですが、大変な重責であることは明らかです。

次の4年間の任期に注目です。

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