井上忠昭/久喜市長選挙の経歴や家族は?年収や選挙結果も!

スポンサーリンク
市長

任期満了に伴う埼玉県久喜市長選挙(2022年4月10日告示、4月17日投開票)に新人の井上忠昭氏が当選を目指して立候補する意向を表明されていますので井上氏に関する情報をまとめています。

井上忠昭氏の

    ・経歴
    ・学歴
    ・ご家族
    ・年収
    ・実績や評判
    ・公約
    ・その他

などについて記事をまとめていこうと思います。

スポンサーリンク

井上忠昭/久喜市長選挙の経歴や家族は?

名前 井上忠昭(いのうえただあき)
生年月日 1969年11月 7日
出身地 久喜市
最終学歴 中央大学卒業、拓殖大学院地方政治行政研究科修士課程修了
職業(前職) 久喜市議会議員、埼玉東部消防組合議会議員、広域利根斎場組合議会議員、保護司
趣味 ラグビー、ピアノ、浪曲など

井上忠昭氏は地元久喜市の出身で、武南高校から中央大学に進みました。

同大学卒業後については、ご自身のホームページに次のとおり記されています。

・学生時代知り合った政界関係者の影響を受け、衆議院議員私設秘書となる。主に政務担当として国会勤務。

・民間企業での勤務経験の必要性を感じて転職。

 株式会社鴨川グランドホテル本社で約6年間勤務して、主に人事、労務管理を担当した。

・企業在職中に久喜市議会議員選挙へ立候補の打診があり、選挙の10か月前に係長で退職。

なお、衆議院議員公設第二秘書も務めたことがあります。

2003年に久喜市議会議員に久喜市議会議員に初当選して以来、5期連続で選出されています。

議員としては、初代総務財政市民常任委員長、第5代久喜市議会議長、議会運営委員会委員長を歴任。

最大会派新政の久喜代表、幹事長も歴任しました。

地域活動でも、太東中PTA前会長、元久喜東小PTA本部役員、第4代太田っ子ゆうゆうプラザ実施委員長、久喜文化団体連合会副会長、久喜民謡連合会会長、久喜市新潟県人会特別会員、久喜市スポーツ少年団、久喜ラグビースクール顧問・相談役など広範に活躍されています。

保護司としても10年間活動を続けています。

市会議員を務めながら、拓殖大学院地方政治行政研究科修士課程を昨年修了しました。修士論文のテーマは「ふるさと納税」でした。

また、日本大学日本大学(通信教育)4年次在学中です。

井上忠昭氏 ホームページ

井上忠昭氏 FACEBOOK

久喜市長選挙 公開討論会

久喜市議会 会議録

保護司 - 更生保護を支える人々

保護司ひとくちメモ

保護司関係法令
(保護司法、保護司実費弁償金支給規則、他)

井上忠昭/久喜市長選挙の学歴は?

井上忠昭氏の学歴は、武南高等学校卒業、中央大学卒業、拓殖大学院地方政治行政研究科修士課程修了です。

また、日本大学(通信教育)4年次在学中です。

出身高校は?

学校法人武南学園は埼玉県蕨市に所在する私立中学校・高等学校です。

1963年に武南高等学校および武南中学校認可が開校しました。

武南学園という名称は、設立発起人である大野元美元川口市長を始め、川口市内の篤志家の方々がいくつかの案の中から「武南桜」にちなんで付けられものです。

「みんなの高等学校」

井上忠昭氏は武南高等学校のOBですが、中学は同学の中等部ではなく久喜市立久喜東中学校を卒業しました。

出身大学は?

【中央大学】

中央大学は、GMARCHと呼ばれる受験生に人気の首都圏私立大学の一つです。

中央大学は1885年に、英吉利法律学校(イギリス ホウリツ ガッコウ)として18人の法律家によって創設されました。

現在は以下の8学部(法学部、経済学部、商学部、理工学部、文学部、総合政策学部、国際経営学部、国際情報学部)、大学院7研究科、専門職大学院2研究科のほか、9研究所、4附属高等学校、2附属中学校を擁する総合大学となっています。

実学重視の気風であり、特に法学部については数多くの司法試験合格者を輩出してきた名門大学です。

みんなの大学情報 中央大学

【拓殖大学大学院】

拓殖大学は、東京都文京区及び八王子市にキャンパスを構える私立大学です。

1900年に設立された台湾協会学校が同学の前身で、元々が日清戦争で日本の植民地となった台湾の開発・植民のための教育期間でした。

大学ポートレート 拓殖大学

1922年に大学令準拠の東洋協会大学となりました。

台湾協会学校(1900年)→私立台湾協会専門学校(1904年)→東洋協会専門学校(1907年)→東洋協会植民専門学校(1915年)→拓殖大学(1918年)→東洋協会大学(1922年)→拓殖大学(1926年)→紅陵大学(1946年)→拓殖大学(1952年)と名称が変遷して現在に至ります。

初代校長に桂太郎(戊辰戦争従軍、台湾総督等)、第2代学監に新渡戸稲造(思想家・教育者、国際連盟事務次長等)、第3代学長に後藤新平(台湾総督等)が名を連ねています。

現在、以下の学部(学科)と大学院研究科を擁しています。

<学部>
・商学部(経営学科、国際ビジネス学科、会計学科)
・政経学部(法律政治学科、経済学科)
・外国語学部(英米語学科、中国語学科、スペイン語学科、国際日本語学科)
・国際学部
・工学部(機械システム工学科、情報工学科、電子システム工学科、デザイン学科)

<大学院>
経済学研究科、商学研究科、工学研究科、言語教育研究科、国際協力学研究科、地方政治行政研究科

みんなの大学情報 拓殖大学

【日本大学(通信教育)】

日本大学は東京都に本拠を置く、日本最大規模の私立総合大学です。

1889年に創立された日本法律学校を前身とし、欧米諸国の法律を学ぶことが主流の当時において、日本の法律を学ぶ学校として誕生しました。

時の司法大臣であり、神職養成を行う皇典講究所の所長でもあった山田顕義を学祖とします。

1903年には日本大学と改称し、1920年、大学令により大学となりました。國學院大學と少なからぬ縁があります。

現在、次の16の学部と通信教育部、短期大学部と大学院とを有しています。

・法学部     ・文理学部     ・経済学部     ・商学部
・芸術学部    ・国際関係学部   ・危機管理学部   ・スポーツ科学部
・理工学部    ・生産工学部    ・工学部      ・医学部
・歯学部     ・松戸歯学部    ・生物資源科学部  ・薬学部

通信教育部は次の4学部8学科(専攻)です。

・法学部(法律学科、政治経済学科)
・文理学部(文学専攻<国文学>、文学専攻<英文学>、哲学専攻、史学専攻)
・経済学部(経済学科)
・商学部(商業学科)

事業活動収入、大学図書館蔵書冊数、卒業生総数、学生数、警察官採用者数、公務員採用者数、一級建築士合格者数、社長の出身大学者数の各々で全国私学1位だったこともあります。

みんなの大学情報 日本大学

井上忠昭/久喜市長選挙の家族は?

井上忠昭氏の家族についての直接の情報は見つかりませんでした。

ただ、PTA活動をされていたことから、ご子息かご息女はおられるのではと思われます。

井上忠昭/久喜市長選挙の年収は?

井上忠昭氏は久喜市議会議員の他、埼玉東部消防組合議会議員、広域利根斎場組合議会議員、保護司をしています。

それぞれの年収について調べてみました。

【久喜市議会議員としての年収】

久喜市のホームページ上に「久喜市の給与・定員管理等について」が公開されています。

最新データは2020年度分ですが、7ページ目を見ると、井上忠昭氏の久喜市議会議員としての2021年度の年収は7,134,000円程度と推定できます。(通勤手当等を除く)

<内訳>

給与:410,000円/月 × 12か月 = 4,920,000円

期末手当:410,000円/月 × 4.5か月 × 1.20 = 2,214,000円

【埼玉東部消防組合議会議員としての年収】

令和元年度 埼玉東部消防組合一般会計決算審査意見書(2019年度)の18ページを見ると、議員報酬のための年次予算が909,658円であったようです。

埼玉東部消防組合消防局のホームページによると、定員は14人なので、一人当たりの年間報酬は平均約65,000円となります。

【広域利根斎場組合議会議員としての年収】

広域利根斎場組合議会議員の議員報酬及び費用弁償に関する条例では、一般の議員の報酬額は年額58,000円と規定されています。

【保護司としての年収】

保護司には給与は支給されず、活動内容に応じて実費弁償金が支給されます。

保護司実費弁償金支給規則からは、200万円以上の年間所得は想像できません。

【年収の合計について】

以上を総合すると、井上氏の2021年度の年収は800万円~900万円程度だったと思われます

井上忠昭/久喜市長選挙の実績や評判は?

井上忠昭氏は「現場主義」を貫き、常に地域の声を聴きながら、街の活性化や安全安心策、福祉の向上などに力を注いできたこと。特に医療問題に大いに研究研鑽を深め、新久喜総合病院の誘致など、医療環境整備に大きな貢献があったことが「井上ただあきを育てる会」などから評価されています。

久喜市議会議員の他、報酬が決してよいとはいえない埼玉東部消防組合議会議員、広域利根斎場組合議会議員、保護司を務め、更に地域活動でも幅広く貢献されてきた事実は、その強力な裏付けになっていると思われます。

また、その傍らで拓殖大学院地方政治行政研究科修士課程を修了し、日本大学(通信教育)在学中など、極めて勉強熱心な姿が浮かび上がってきます。

そもそも、大学卒業時に衆議院議員私設秘書として政界に身を投じてから、民間企業での勤務経験の必要性を感じて転職して6年間勤め、係長に昇進しながら、政界に戻っています。

このような政治家として真摯な姿勢が評価され、今回の選挙への立候補を促されたものと思われます。

公開討論会では、梅田修一氏が緻密な話をされていた一方で、井上氏は具体性があってわかりやすい話で場をリードする場面がしばしば見受けられました。

井上忠昭/久喜市長選挙の公約は?

井上氏は「行政の継続性に留意しつつ、個別施設計画は一度撤回して作り直す。大風呂敷を広げず、優先順位をつけ市民生活に直結した事業から取り組んでいきたい。」と主張しています。(毎日新聞(有料版)4月13日付記事より)

自身のホームページの「私の政策」に「8の政治目標」を掲げています。

項目を記すと次のとおりです。

1)市役所あり方改革、行政改革推進 情報が正しく伝わる街づくり

2)「住んでよかった」、みんなが笑顔 豊かさを実感できる街づくり

3)地域経済・産業の活性化が伝わる 元気イッパイな街づくり

4)農業・商工が活気に溢れ、賑わいでワクワク感がある街づくり

5)医療、福祉、教育のレベルが高まっていく街づくり

6)スポーツと文化、長寿と健康づくりの満ち溢れる街づくり

7)市民が繋がる地域コミュニティの再生であいさつ飛び交う街づくり

8)通学路、交通、環境、災害、犯罪 安全安心が配慮された街づくり

井上忠昭/久喜市長選挙の立候補した理由は?

井上忠昭氏の立候補の理由は毎日新聞(有料版)記事にありました。以下引用します。

(4月13日付記事より)

出馬のきっかけは現市政による公共施設個別施設計画への疑問。「耐震補強済みの市庁舎を取り壊し移転新築」「集会所は地元に譲渡」。こうした方針に「市民の気持ち、地域の実態に沿わない。このままでいいのか」。支援者らから促され悩んだ末に昨年暮れ、決断した。

現職は争点化を避けて、市庁舎建て替えなど一部計画を年明けに撤回。しかし、「大きな混乱を招いた経営責任が果たされていない」と批判を強め、「当たり前の市政を取り戻したい」と訴える。

(4月12日付記事より)

井上氏は、市庁舎問題や東京理科大の跡地利用などを例に「梅田市政は議会に情報を出さず、市民の声を聞かず、思いつきで政策を進め、混乱の責任を取らない」と批判。「健全で責任のある町づくりを」と訴えた。

井上忠昭/久喜市長選挙の選挙結果は?

井上忠昭氏が政治家となったのは久喜市議会議員への初当選の2003年で、現市長の梅田修一氏(当時は鷲宮町議会議員)と同じ年です。

井上氏はその後5期連続で合計19年間、久喜市議員を務めてきました。

詳しくは以下のとおりです。

【久喜市議会議員選挙】

2003年4月27日 1,009票(自由党) -13位<当選>(定数:25 候補者:26 投票率:52.44%)
2007年4月22日 1,958票(民主党) – 1位<当選>(定数:22 候補者:24 投票率:54.24%)
2010年4月25日 2,103票(民主党) – 8位<当選>(定数:34 候補者:45 投票率:53.3%)
2014年4月20日 1,550票(無所属) -22位<当選>(定数:30 候補者:39 投票率:52.58%)
2018年4月22日 2,017票(無所属) – 9位<当選>(定数:27 候補者:31 投票率:50.02%)

2010年に鷲宮町が合併されてからの約5年間は梅田氏も同じ久喜市議会議員でした。(梅田氏は2015年に辞職して埼玉県議会議員に立候補して落選。2018年に久喜市長選挙に当選。)

一貫して無所属だった梅田氏とは異なり、井上氏は直近の2期こそ無所属ですが、初回は自由党、2~3期目は民主党から立候補していました。

党名が変わった理由は、元々所属していた自由党が民主党に吸収合併されたためであり、所属政党を変更したわけではありません。

井上氏が2期目にトップ当選された背景には、旧自由党首・小沢一郎氏が民主党代表に就任して同党が躍進したことも背景としてあったかと思われます。

4期目は初めて無所属で立候補したものの、直前まで党勢が低迷する民主党議員であったためか、定数30名中22位と苦戦しました。

5期目は無所属での立候補に馴染まれたのか、危なげなく当選されています。

井上忠昭/久喜市長選挙の引退の可能性は?

井上忠昭氏は、まだ52歳であり、また、そのエネルギッシュな活動から、引退を想像できません。

まとめ

大学卒業時の井上忠昭氏の視線は国政に向いていて、小さな政府を志向していたと思われます。

しかし、民間企業に一旦転職してから政界復帰後の活躍の場は一貫して地方自治であり、医療・福祉に力を注いできたことが評価されています。

井上氏自身に元々認識があったとは思えませんが、所属していた自由党が民主党と合併して懸命に変化を遂げていったことと関連しているようにも思われます。

民主党政権時代については色々言われていますが、プラス面は間違いなくあったはずで、それを成し遂げた自由党・民主党には大きな理想があったことは事実でしょう。

井上氏には、そのエネルギーを保ち進化を続けている様が感じられました。

調べるほどに、活躍が楽しみになる政治家との印象を強くしました。